脳内

この世の需要を置いてきた

自分の自分じゃない部分

 

 

小学校の頃に自分と他人の同一性を疑い始めた。

自分は他の人にはなれないし自分以外は自分ではない みたいな

これが歳が一桁だった自分にはとてつもなく不思議だった

 

感受性が豊かな(だと分析している)自分は、この思考を頼りに自分と他人を切り離して考えるようになった

 

プログラミング界隈では、未来の自分は他人 という言葉があるらしい

確かにそう

他人の考えていることがわからないのと同じように、未来の自分が考えていることはわからない

自分ですら時間が違えば他人になるわけだ

 

信じれるのは今の自分だけ、ということになるがはたしてそうなのか

前から潜在的に感じていたことを最近になって言語化できるようになった

「自分の身体でさえ、自分にはわからない領域であり、他人と同じといえるのでは」

というやつ。

 

我思う故に我あり という言葉があるが

この言葉を自我を肯定する形で理解していたが、最近になって自我以外を否定する形で理解した

 

最近のきづき。

 

 

んでまあこれの発展で、今日の気づきを1つ書いて終わろうと思う

 

どこでもドアの都市伝説ってあるよね

新しい個体を複製&前個体を消去 ってやつ

ドアを通ったら本当の自分ではない他人が自分と同じ記憶・身体で生き続けるってやつ

 

これ結構好きなんだけど、今回の話を踏まえると

未来や過去の自分はそもそも他人なわけだから、ドアを通っても通ってなくても常に瞬間の自分は消去され続けてる

通ったからと言ってこの状況は変わらない

 

つまりどこでもドアの仕組みが

空間を歪めてワープしてる説であっても、

複製&消去してる説であっても、

変わらないよね〜って思った

 

 

んーちょっと日本語下手かもしれん

 

おしまい